TOP事業承継沖縄の想いとDNAを継ぐ ~ゆいまーる沖縄株式会社の事業承継~ 中編
事業承継

沖縄の想いとDNAを継ぐ
~ゆいまーる沖縄株式会社の事業承継~ 中編

 比嘉 智明

2017/02/3

yuimaru01

沖縄への強い思いから生まれた“理念”を継ぎながら、
伝統工芸を通して、沖縄の眠っているDNAを覚醒し、
次の世代へ継いでいく。
ゆいまーる沖縄株式会社の事業承継。

 

(前編はこちら)

「琉球の自立を目指す」という経営目的のもと、故玉城幹男氏によって1988年に設立されたゆいまーる沖縄は、沖縄物産の県外への販路開拓の先駆者として、順調に事業を拡げていました。ところが、会社設立から18年目、50歳を迎えた玉城氏にリンパ癌が見つかります。
それは、玉城氏の病魔との闘いと、鈴木さんの事業承継の始まりでした。

 

玉城氏に癌が見つかった2006年前後、ゆいまーる沖縄にとっては、玉城氏の病気だけでなく、経営環境としても難しい時期に差し掛かっているところでした。
沖縄では、2000年に開催された九州沖縄サミット、そして、翌年に放送が開始されたNHKの連続テレビ小説「ちゅらさん」などをきっかけに、空前の沖縄ブームが巻き起こります。そのブームに乗って、沖縄の物産を取り巻く市場は、2000年から2004年ごろにかけて、かつてない盛り上がりを見せ、市場が大きく膨らみますが、その後ブームは急激に冷め、2006年ごろには、ブームが終焉してしまいます。
沖縄の物産を扱っているゆいまーる沖縄も、そのブームの影響をもろに受けたといいます。「当時、ゆいまーる沖縄でも、市場の膨らみに合わせて、店舗数を増やし、東京に3か所、県内に4か所、小売店を構え、飲食も1店舗運営していました。売上高は7億円を超え、従業員も70名ほどいました。ところが、沖縄ブームの後、売上は一気に減少し、県外の店舗は採算が合わずに赤字になっていきました。」と、鈴木社長は当時の様子を振り返ります。

 


当時の様子を振り返る鈴木社長

 

沖縄ブームの翳りと玉城氏の死
困難な経営問題と向き合う日々

沖縄物産の市場が急落した後の2007年、玉城氏の病状は、急速に悪化し、必死の闘病の甲斐もなく、癌の発見から1年後、玉城氏は、51歳という若さでこの世を去ってしまいます。
そのころ、ゆいまーる沖縄には、沖縄ブームの煽りを受けた不採算店舗をどうするかという難題が、火急の課題としてあがっていました。それに追い打ちをかけるようにして、代表者が病に倒れるという事態が発生したのです。このような状況で、どのようにして事業承継を進めていったのでしょうか。鈴木社長は、次のように話します。
「玉城の病気は、青天の霹靂のように、非常に急なことでした。健診を受けたところ、ステージ1の癌が見つかったということを、翌週の役員会の場で玉城からすぐに聞かされました。その時に、治療に専念するために1か月以内に治療を開始すること、経営を残った役員に任せることなども玉城から告げられました。当時、私は、取締役で30歳、もうひとり30代の取締役がいて、急きょ二人で経営を進めていくことになりました。玉城もその時は、早く病気を治して会社に戻ってくるという考えだったので、株式は玉城が持ったまま、代表権のみを私ともう一人の取締役が持つという、いわゆるオーナー権と経営権が分かれた状態で会社を運営していくこととなりました。」

中小企業の経営においては、迅速な経営判断を行うことなどを目的に、株主である会社のオーナー(オーナー権)と、経営を行う社長(経営権)は、一般的に同じ人であることが望ましいと考えられています。しかしながら、ゆいまーる沖縄は、このような非常事態において、オーナー権と経営権がわかれた状態で、会社の運営を行っていくことを選択します。
このような経営体制のもと、鈴木さんはもう一人の代表者と二人三脚で、1年半ほど経営を続けていきますが、玉城氏は、経営の第一線に戻ることなく帰らぬ人となってしまいます。その後、ゆいまーる沖縄の経営体制はどうなったのでしょうか。鈴木さんは続けます。
「玉城が他界した後、株式は、玉城の奥さまが相続し、一旦ゆいまーる沖縄のオーナーとなりましたが、すぐに、奥さまから株式の過半数を買い取りました。買取価格は数千万円で、当時役員が3名いたので、1/3ずつ引き受けることになり、買取資金は、役員報酬の中から分割で支払うことにしました。そのころの会社の状態としては、金融機関からの借入金が、まだ残っている状態で、不採算店の整理を進めている状況でした。」
その後、鈴木さんは、他の2名の役員からも株式を買い取り、ゆいまーる沖縄の代表取締役社長として就任し、会社の経営を一手に引き受けて舵取りをしていくことになります。

 

理念に共感し、信念を持って取り組む。迷わず邁進した事業承継

当然、会社に残っていた借入金の保証人も引き受けての船出です。一般的に考えて、債務が残った会社を引き継ぐということは、経営者の親族の方でも二の足を踏むものですが、このような状態の会社を承継するにあたって、鈴木さんに迷いはなかったのでしょうか?
「一般的に考えると迷うものなのでしょうが、私に迷いはありませんでした。家族には、本当に大丈夫かと心配されましたが、幸い、ゆいまーる沖縄は黒字経営を続けていましたし、何よりも玉城の経営目的に共感し、ゆいまーる沖縄を存続させることに意義を感じていたのです。」と、鈴木さんは言います。

 


ゆいまーる沖縄の事務所に設置された玉城氏の蔵書

鈴木さんは、25歳のころに役員に就任しますが、そのころから、玉城氏は、毎週役員会を開催し、経営状況を共有しながら、ゆいまーる沖縄を立ち上げた目的や会社として目指す方向などを、鈴木さんたち役員に伝えていたそうです。通常、役員会というと、経営状況に関する話題を取り上げ、経営方針や営業方針などを決めていく場として考えられますが、玉城氏の役員会では、会社の目的や存在意義などについて、玉城氏が考え方を伝えながら、役員と一緒に議論する場となっていたといいます。玉城氏は、東京にいたころ、沖縄を取り巻く様々な問題について、仲間と一緒に議論する“沖縄研究会”という会の中心メンバーとして活動していましたが、ゆいまーる沖縄の役員会は、玉城氏にとって、まさに“沖縄研究会”が場を変えた物だったのかもしれません。
その役員会で、玉城氏やゆいまーる沖縄の理念に共感し、既にそれを受け継いでいたからこそ、会社を引き受けるにあたって、鈴木さんに迷いはなかったのでしょう。

 


玉城氏が開催していた当時の役員会の資料

 

「琉球の自立を目指す」
沖縄の文化や価値を工芸品を通して世界に発信

こうして、玉城氏の亡き後、ゆいまーる沖縄は、玉城氏の理念を引き継いだ鈴木さんによって、新たな航海へと船を進めて行くことになります。
沖縄の工芸品の県外への販路を開拓した玉城氏、鈴木さんはその販路を引継ぎながら、沖縄の工芸品の価値を高めることで、沖縄の文化や沖縄の人の中に息づく無形の価値を、工芸品を通して伝えていくことへチャレンジしていきます。
継いだ事業を、現状維持のまま続けていくのではなく、新しい経営者によって、新しい価値を事業に加えていく、まさに事業承継のあるべき姿を鈴木さんは実践していくのでした。

・ゆいまーる沖縄株式会社 :http://www.utaki.co.jp/
・Facebookページ:https://www.facebook.com/yuimarluokinawa.jp/?rf=207086239323360

 

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沖縄県事業引継ぎ支援センター - 2017/02/3