TOP事業承継沖縄の想いとDNAを継ぐ ~ゆいまーる沖縄株式会社の事業承継~
事業承継

沖縄の想いとDNAを継ぐ
~ゆいまーる沖縄株式会社の事業承継~

 比嘉 智明

2016/11/25

yuimaru01南風原町に店舗を構える「ゆいまーる沖縄」

 

沖縄県南部、南風原町の国道沿いに、沖縄の強い日差しを浴びて、一面真っ白に輝く大きな白い壁。そこに、大きすぎず、小さすぎず、シンプルだけれどもしっかりと存在を主張するような紺色のアルファベット文字で「YUIMARLU OKINAWA」と書かれた社名。
沖縄の工芸品や食品などを扱う「ゆいまーる沖縄株式会社」は、今年で創業29年目。沖縄の食品の販路開拓から始まった事業は、「琉球の自立を目指す」という経営目的のもと、伝統工芸を通して沖縄のDNAを形にし、世界へ発信している。次世代の経営者へと脈々と引き継がれていくDNA。そんなゆいまーる沖縄株式会社の事業承継について、現代表の鈴木社長にお話しを伺った。 

 

伝統工芸を通して、沖縄の眠っているDNAを覚醒し、次の世代へ継いでいく。

suzukiゆいまーる沖縄の成り立ちと事業承継について語る鈴木社長

 

ゆいまーる沖縄は、創業者の故玉城幹男氏が1988年に設立した卸・小売業の会社である。沖縄の手仕事でつくられたモノを中心に扱いながら、それが生み出された背景や文化にまで掘り下げてお客様へ届けることで、沖縄の心を伝える事業を展開してる。

 

ゆいまーる沖縄では、沖縄の焼物や琉球ガラス、染織物などの工芸品を中心に、県内の工房やメーカーから仕入れ、販売しているが、「nife」や「serumama」、「aimun」といった自社ブランドを立ち上げ、商品に対する自社の想いや作り手のぬくもり、沖縄の風土や文化などを伝えながら、商品を使うお客様の生活様式などを提案することで、付加価値の高い商品を提供している。

yuimaru02ゆいまーる沖縄が運営するオンラインショップ「MADE IN RYUKYU

 

そして、商品を販売するだけでなく、店舗の一角を利用して、工芸品の製作体験ワークショップや沖縄の素材を使った簡単なおやつや料理の調理・盛付体験セミナーなどを定期的に開催することで、扱っている商品を中心に据え、作り手、使い手、素材、製品、人、地域、風土、文化などを結び付け、沖縄の工芸という事業そのものを継承する活動も続けている。 

yuimaru03ゆいまーる沖縄の店舗内で行われているワークショップの様子

 

また、鈴木社長は、もの言う社長としても知られる。在沖米軍基地に関する問題に対して、沖縄の歴史的背景や「琉球の自立を目指す」という経営目的などから、米軍基地を取り戻し、生産の場に変えるという姿勢を明確にし、新聞へ寄稿したり、社員教育の一環として基地問題の現場や沖縄戦の戦跡を訪れたりするなどの活動も行っている。

 

ゆいまーる沖縄のこの様な事業展開や活動は、どのような成り立ちで形作られてきたのだろうか。これから、創業者である玉城氏のゆいまーる沖縄に込めた想いや理念、そして、それを引き継いだ鈴木社長の葛藤の時間をたどることになる。

 

「差別」が生んだ事件。沖縄の問題を思い悩み、解決策を見出そうと、積極的に行動していた。

yuimaru04生前、玉城氏が切りためていたスクラップブック

 

 1970年代、創業者である玉城氏は、沖縄の高校を卒業後、すぐに集団就職で東京へ上京する。当時は、沖縄出身というだけで、アパートの契約を断られたり、飲食店への入店を断られるなど、沖縄の人に対する差別が明確に残っていた時代であった。沖縄出身ということを知られることが嫌で、苗字を変える人もいるほどの状況だったという。

 

また、当時の沖縄の一人当たりの県民所得は、本土平均の6割程度で、本土との格差が大きかった。そのため、集団就職で上京しても、故郷への仕送りなどの負担がのしかかり、決して楽な暮らしとは言えなかった。上京した玉城氏も同じような境遇にあったようだ。

 

将来の活動の方向性を模索するために、10年ほど様々な職に就きながら経験や考えを構築していった玉城氏。最初に就いた仕事は、豆腐工場だった。その後、不動産会社の社長秘書、業界紙の編集社、そして最後にたどり着いたのがちり紙交換だった。玉城氏は、東京で働く中で、沖縄の人に対する差別を肌身で感じていた。

 

「そんな中、玉城は、“ゆうなの会(*1) “という、エイサーなどの沖縄の伝統的な文化・芸能などを行う組織や、”沖縄研究会”という、沖縄の政治や経済に関する様々な課題について、沖縄の仲間と勉強し議論する会などの中心メンバーとして積極的に活動を行っていたそうです。ちり紙交換の仕事に就いたのも、実は、この様な活動をするための時間を確保しやすかったからだと聞いています」と、当時の玉城氏の様子を鈴木社長が話す通り、玉城氏は、上京して直面した沖縄に関する様々な課題に対して、思い悩み、なんとか解決策を見出そうと、積極的に行動していたという。

 

ゆいまーる沖縄の店内には、生前の玉城氏が切りためていた新聞記事のスクラップブックが、本棚に備え付けられている。そのファイルには、当時の沖縄出身者が本土で犯した犯罪や沖縄の政治や経済に関する問題についての記事などが切り取られている。

 

「玉城は、沖縄の人が犯した事件や、沖縄の様々な問題を、単発の出来事としてではなく、沖縄が置かれている構造的な問題として捉えて、その原因や解決する手段について仲間と議論を重ねていたのです」と、鈴木社長は、当時の玉城氏の沖縄問題の捉え方について付け加える。

 

この様な経験や活動を通して、沖縄を取り巻く構造的な問題を解決するためには、沖縄が経済的に自立する必要があると玉城氏は考えた。その実現のために、企業経営という選択をし、ゆいまーる沖縄を設立することになる。

 

 県産品の県外への販路が十分に整っていなかった当時、販路拡大の一翼を担う会社として存在した。

yuimaru05ゆいまーる沖縄創業当時の店構え

 

玉城氏にとって、ゆうなの会が「伝統文化を知ってもらうことで沖縄の自立を目指す活動」だったとすれば、ゆいまーる沖縄は「経済の側面から沖縄の自立を目指す活動」として位置付けていたと考えられる。設立当初のゆいまーる沖縄は、沖縄の食材を首都圏の沖縄料理店などに卸す事業を行っていた。沖縄の食材は、今でこそ県外でも容易に手に入れることが出来るようになっているが、当時は、取り扱う業者が少なく、飲食店も食材の仕入れに苦労していたようである。ゆいまーる沖縄の事業は、沖縄食材の卸業として順調に伸びていった。

 

ゆいまーる沖縄では、当初は食品を主に扱っていたが、沖縄の物産展などに出店したところ、食品の販売に合わせて、沖縄の伝統工芸品の売れ行きが良かったため、伝統工芸品の取り扱い量を徐々に増やしていく。沖縄食品と伝統工芸品を扱うゆいまーる沖縄の事業は、順調に拡大し、県内の大手デパートやホテルにも店舗を出店する。1988年の設立から10年後の1998年には、従業員15名を抱え、年商2億円ほどの企業に成長するまでになる。県産品の県外への販路が十分に整っていなかった当時、ゆいまーる沖縄の事業は、まさに、県産品の販路拡大の一翼を担う会社として存在したのである。

 

過度にイデオロギーに傾倒せず、あくまでも民間の力で経済的自立を目指す。

04ゆいまーる沖縄の店内に並ぶ、沖縄や経営に関する玉城氏の蔵書

 

ゆいまーる沖縄の設立から5年後の1993年、沖縄の物産を扱う「わしたショップ」を運営する株式会社、沖縄県物産公社が設立される。物産公社は、沖縄県が出資する第三セクターとして設立されるが、当時、玉城氏のもとへは「ゆいまーる沖縄を物産公社へ合併させ、沖縄物産の県外への販路拡大を一緒にやっていかないか」という話が舞い込んだという。

 

その申し入れを断った玉城氏は、公的機関とは一定の距離を置きながら、民間で事業を展開することを選択する。この選択には、「過度にイデオロギーに傾倒せず、あくまでも民間の力で経済的自立を目指す。政治や公的機関とのかかわりを強く持つと、言いたいことも言えなくなるという、玉城なりの考えがあったと思います」と、鈴木社長は話す。

 

玉城氏のこのような姿勢を示す顕著な出来事がある。2001年、物産公社は、民間出身の当時の専務を退任させ、県の元公務員を専務に就任させるという人事案を発表する。当時の物産公社は、社長、常務ともに、元県庁職員だったため、専務まで県庁出身者となると、役員全員が元公務員ということになる。経営状態が悪いわけではなく、黒字経営の状況でのこの人事案について、物産公社の職員や取引先企業などは強く反発した。

 

「この時、玉城は、専務の退任に反対する署名活動を中心になって行いました。わずか、3日で4,000名あまりの署名を集めたと聞いています。結局、人事案の通り専務は退任したのですが、この出来事も、イデオロギーに傾倒せず、あくまでも民間の立ち位置で言うことは言うという玉城の姿勢が良く表れた出来事だと思います」と話す鈴木社長。

 

この様に、行政との距離を保ちながら、自らの考えをしっかりと主張し、沖縄の物産の販路を開拓してきた玉城氏。沖縄の自立を目指して精力的に事業に打ち込んでいた矢先に、突然病魔が襲い掛かる。当時50歳の玉城氏にリンパ癌が見つかったのだ。玉城氏の病魔との闘いは、鈴木さんへの事業承継の始まりでもあった。

 

(*1)ゆうなの会:当時、沖縄からの集団就職者の一人が、勤め先の会社からの差別に耐え切れず、社長の自宅に放火するという事件が起きる。この事件の報道において、犯人が放火に至った背景にある差別の実態については全く触れられることはなかった。その背景を知る集団就職の仲間たちは、差別の現状を訴えながら減刑を求める活動を必死で続けるが、支援の甲斐なく、犯人は、獄中で自ら命を絶ってしまう。犯人が拘置されていた部屋には、差別による苦しみを訴える長文の遺書がトイレットペーパーに書き残されていたそうである。ゆうなの会は、この事件をきっかけにして、集団就職者を支援する目的で設立された組織で、東京や大阪を中心に、数十の支部から構成される。沖縄は、1952年に米国の統治下におかれ1972年に日本へ復帰するまでの20年間、日本ではなく米国の1州として存在していたため、沖縄の文化や風土、風習、人々の暮らしぶりや考え方が、県外の人たちには正しく伝わっていなかった。「知らないから差別が生まれる」という考えのもと、ゆうなの会では、沖縄の文化、伝統芸能などを通して、県外の人たちに沖縄を知ってもらうことを活動目的のひとつとし、エイサーや三線、島唄などを各地のお祭りなどで披露していた。

 

(中編はこちら)

 

・ゆいまーる沖縄株式会社 :http://www.utaki.co.jp/
・Facebookページ:https://www.facebook.com/yuimarluokinawa.jp/?rf=207086239323360

 

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中小企業の経営者の平均年齢は年々高くなってきており、それに伴い、後継者不在による事業承継問題が深刻化しています。後継者がいないために廃業する会社は、全国で年間約7万社、これにより実に約30万人の雇用が失われていると言われています。 その中でも沖縄県は、後継者不在率80%、廃業率7%で、この2つの数値において、全国的に最も高い県となっています。 さらに、2013年の県内の廃業数は、366社にのぼり、過去10年間で最多を記録しました。 このような状況において、第三者への事業承継(M&A)を支援することで、廃業企業を減らし、雇用を守ることを目的に、中小企業庁は、全国各地に「事業引継ぎセンター」を設置し、中小企業経営者のサポートを行っています。 沖縄県では、那覇商工会議所内に開設され、沖縄県内全域をカバーし、事業承継に関わるご相談を受け付けています。

沖縄県事業引継ぎ支援センター - 2016/11/25